「ご主人には後遺症として高次脳機能障害が残ります。」担当の医師からそう告げられ、何のことかわからず、ネットで調べ、ショックで落ち込んだのを今でも鮮明に覚えています。
2012年1月、夫は自宅で倒れました。家族が不在だったため、発見までに時間がかかりました。救急車で運ばれ、脳梗塞の1つである「心原性脳血栓症」と診断され、即、手術を受けました。
夫は以前から「心房細動」があり、そのせいで心臓の血管に血の固まりができ、それが脳に飛んだのが原因でした。
当初は左手と左足に完全な麻痺が残りました。「寝たきりになるかもしれない」と言われましたが、リハビリと本人の体力のお蔭で、現在は車椅子での生活ができています。
私の介護生活も今年で12年目に入りました。今では落ち着いて、お互い声を荒げることも少なくなりましたが、初めは苦労の連続でした。
「高次脳機能障害」という中身はわからない事だらけでした。倒れる前と倒れた後の性格も食の好みもガラリと変わったことに、とても戸惑いました。以前の夫ではありませんでした。
私だけではなく、夫自身も不安だったのか、夜中に何度もベルで起こされ呼ばれました。そんな毎晩が続き、私は寝不足になり疲れ果ててしまい、「これから先もずっとこの状態が続くのだろうか?」と鬱々とし、マイナスなことばかり考えていました。
それから5~6年経った頃、娘一家4人が県外から引き上げ我が家の隣に住むことになりました。娘婿も私たち夫婦のことを心配してくれ、家族を離れ、長い間、職場のある県外で単身赴任生活を送ることになりました。その後、娘婿は大分市内の事務所に勤務することになり、現在は自宅から職場に通っています。
当初は、私も「娘家族の生活に負担をかけては悪い」と頑なに断りましたが、娘たちはこれを突っぱね、隣に引っ越して来てくれました。今では事ある毎に助かっており、とても感謝しています。夫も安心して穏やかな日々を過ごすことができています。
夫は通常、月曜日から土曜日まで一日デイケアに通い、私に用事があるときはショートステイをお願いしています。
お世話になっているケアマネさんがとても親切な方で、困った時の無理なお願いも、快く聞いて相談にのってくださいます。夫もケアマネさんを誰よりも信頼している様子で、私が言っても聞かない事もケアマネさんが言えば、渋々でも納得してくれるので、とても助かっています。
夫が倒れた時は、私自身もまだ若く元気でしたが、6年前に大病して入院し手術して以来、老々介護状態ですが、娘家族の助けもあり、何とか夫婦も力を合わせて乗り越えています。
回復期リハビリテーション病院での半年間にわたる夫のリハビリ生活の間、私にも介護のお友だちができました。お互いの悩みを相談し合う中で、大分で立ち上げたという「脳外傷友の会『おおいた』」という家族会があることを教えていただきました。
何もわからず、不安の中、家族会に参加すると、同じ境遇の方ばかりで、悩みを聴いたり話したりすることで、毎回とても勇気づけられ、参加するのが楽しみになってきました。
現在は「高次脳機能障害友の会『おおいた』」となっていますが、この会を知らなかったら、今頃どうしていたのか想像もつきません。最近は、定例会に介護者ばかりでなく当事者の方も多く参加されるので、とても勉強になっています。
これからも家族会でいろいろ教えていただき、公的機関を上手に利用しながら、夫や家族と共に穏やかな人生を歩んでいきたいと思います。
私は2019年6月25日の深夜、自宅にて就寝中、トイレに行こうと目が覚め、起き上がろうとしましたが、体が動かず、叫んで、当時同居していた母に助けを求めました。
母は救急車を呼び、救急隊により、私は大分市内の脳神経外科病院に搬送してもらいました。
私の記憶は、救急隊の方が来る所まででしたが、発見が早く、対応が適切であったため、私は死なずに済みました。
母や救急隊の方々にはとても感謝しています。
目が覚めた私の周りには、娘たちと母がいました。体中に点滴のチューブが刺ささった状態で私はICUにいました。
原因は高血圧症による脳出血でした。
入院当初はオムツをはかされ、毎朝、下半身を洗ってもらい、見る景色は空と葬儀場の看板でした。
週に何回かストレッチャーに乗せられ、風呂に入り、看護師さんに頭から体まで洗ってもらいました。
動かない「左半身の麻痺」を受け入れることがなかなかできず、毎日もがいては落ち込んでいました。
46歳という年齢で発症した私には、とても辛い日々でした。
特に、母に心配や迷惑をかけることが一番辛かったです。
ICUの生活が問題なく経過し、3階の一般病棟に移ることになり、ケアマネの方にお世話になることになりました。
自分の希望を話し、自立・社会復帰を目指すことを伝え、計画を立ててもらいました。
車椅子から杖歩行まで回復しました。
当時働いていた職場の仲間に連絡をとるとすぐにお見舞いに来てくれました。
その当時も私は自分の身に起きた現実を受け入れることが出来ませんでした。
すぐに治ると思っていました。
しかし、現実は左手・左足は全く思い通りに動かず、口からはよだれが垂れ、頭も回りません。
今まで、要領よく事を進めていたことが出来なくなりました。
後遺症により高次脳機能障害と左片麻痺が残りました。
体の左半分が動かないので、リハビリをしてもらう事になりました。
私は「とにかく外に出たい、歩いていきたい所へ行きたい」と、リハビリの先生にお願いしました。
家族もそれに同意してくれました。
3階でのリハビリ生活も問題なく経過し、4階へ移動となりました。
4階でのリハビリは、階段の上がり下りを主に、杖を就いての歩行の練習をしました。
階段を1段ずつ上がっていくのに必死でした。
洗濯物を干すのが、5階の屋上でしたので、洗濯物を持ってそこまで上がるのは大変でした。
毎日お風呂に毎日入りたいのですが、洗濯物を干すことを思い、週3日の入浴で我慢しました。
その頃、見える景色は空と病院の隣のアパートでした。
リハビリの先生に「外に出て、歩きたい」とお願いしました。
お蔭で、杖歩行で病院の外周を歩くことができるようになり、入院生活6ヶ月目を前にして、杖なしで病院の外周を歩くことが出来るようになりました。
退院の前に、リハビリの先生2人とで市内の商業施設まで杖歩行で出かけ、そこでのエスカレーターやバスの乗り降りをすることの難しさを学びました。
当時の私は、自立・社会復帰、車の運転を目標にしていました。
発症後、仕事をしていた会社を退職しました。
今後、老いて心臓に持病がある母に頼るのは負担をかけることになるだろうと、一人暮らしを望みました。
その当時、病室は4人部屋で、その中の1人の方から、高次脳機能障害の支援拠点である病院の『障害者支援施設』」に行くといいですよ」と教えてもらいました。
その施設は、私の目標を叶えるのに、最適なところだと思い、行くことを決めました。
家族にも同意してもらえました。
実は、その施設に行く前の正月、家に帰ったとき、母に「退院後は家にかえりたい」という旨を伝えたら、断られました。
やはり「そうだろうな」と母の気持ちを受け入れました。
2020年1月15日、支援施設に転院しました。
施設はとても広く、1人1部屋で、少し自由を手に入れた気がしました。
そこから見える景色は、山の中なので、緑が多かったです。
それと、その付近に住みついている、のら猫が私を癒やしてくれました。
時には、子ねこが来るときもあり、本当に癒やされました。
施設には私のような障がいを持つ人たちがたくさん入所していました。
リハビリから訓練になりました。
「訓練」は、リハ室にある器具を使って、自分で行うものでした。
週に2日、スクワットの日があり、午前中に100回を2セットを行いました。
他にも、手芸としてクロスステッチや革工芸などを学びました。
私は入所してすぐに、47歳になりました。
はじめは週3日温泉に入りました。
大きな風呂に入れたのは、とても嬉しかったです。
入所1か月で私は入浴も一人で入れるようになりました。
そうなると毎日入浴できました。
しかし、私は2020年3月25日、リハ室での訓練中に「てんかん」発作を発症しました。
この時のことは全く記憶がありません。
気づけば、脳神経外科病院へ運ばれる救急車の中でした。
4日間入院して、施設に帰りました。
「てんかん」発作の発症により、車の運転は2年延期になり、入浴も「自立」から「見守り」にランクダウンしました。
とても悲しかったです。
施設でのリハビリは、動く右手と右足をより鍛え、障がい者として生きる知識を学びました。
左手が動くことはありませんでしたが、いろいろな体験をさせてもらいました。
「就労移行」に入ってからは、さらに自立に向けての訓練が始まりました。
一般入所生活を約一年半、「就労移行支援」を約一年経験しました。
発作以降、怪我や病気もなく、2022年5月に退所することになりました。
退所後は、大分市内のB型作業所で仕事することになり、隣接したグループホームで自立に向けての一人部屋での生活が始まりました。
作業所でもグループホームでも身体に障がいのあるのは私だけでした。
なんとなく孤独感を感じました。
そのことを作業所の職員に伝えたら、高次脳機能障害の家族会のことを教えてくれました。
2022年7月から家族会に参加させていただき、いろいろな会員の方のお話を聴かせていただきました。
私も「これからの私の目標」、「障がいに関すること」、「支援してくださっている方々のこと」、「近況」等、すべて家族会で報告させていただいています。
参加当初は、障がいに立ち向かっているのは私一人だと思っていましたが、同じようにがんばっている仲間との出会いもあり、励まされています。
これからもできるだけ家族会に参加したいと思っています。皆さんとの交流を深め、講習会や研修会等にも積極的に参加し、挑戦していきたいと思っています。
2023年3月末にグループホームを退所し、県営住宅での一人暮らしを始めました。
これからも、より自立した生活、A型事業所での就労や運転免許取得を目指し、日々の生活での訓練や支援拠点病院でのリハビリにがんばりたいと思います。